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アウンサン

アウンサン、オンサン(ビルマ語: BogyokeAungSan.pngラテン文字転写: Aung San、1915年2月13日 - 1947年7月19日)は、ビルマ(のちのミャンマー)の独立運動家。「ビルマ建国の父」として死後も敬愛されている。民主化運動指導者と呼ばれるアウンサンスーチーは長女。

生い立ちから学生時代

1915年、ビルマ中部、現在のマグウェ管区ナッマウ(Natmauk)の町に生まれる。生家は独立運動家として有名で、1886年にビルマを英領インドに併合したイギリス軍に抵抗していた。ラングーン大学英語版に進学し、英文学近代史政治学を専攻。在学中ラングーン大学の学生会最高委員会に立候補、機関誌 "Oway (Peacock's Call)" の編集者になった。1936年、彼は機関誌に掲載され問題になった反英的記事 "Hell Hound Turned Loose" の筆者を隠し通したことによりウー・ヌと共に退学させられたが、このことは全学ストライキを引き起こし、大学側は退学を取り消した。1938年にはラングーン大学学生会と全ビルマ学生連合の委員長に選ばれビルマ学生界のリーダーとなった。

独立運動と日本への渡航

1938年10月より学生運動から政治運動へと移り、反英運動を展開する。彼は独立運動組織「われらビルマ人連盟」に入り、1940年8月まで総書記として活動し、「1300年のストライキ」として知られる一連のストライキ活動を組織した。また民族主義団体「自由ブロック」の結党を援助。1939年8月15日ビルマ共産党が結成された際には、結党メンバーの7人の内の1人となり、初代書記長に就任している。1940年にバー・モウの「貧民党」と合流し、3月にはインド国民会議にも出席したが、イギリス官憲の逮捕状が出たためアモイへ亡命、さらにビルマ独立の支援により援蒋ルートの遮断を意図する日本軍の鈴木敬司参謀本部大佐により日本へ逃れ箱根の大涌谷に滞在していたという口碑がある。この時彼は25歳だった。


1941年2月、日本の資金援助と軍事援助を約束された彼は一旦ビルマに戻ると、青年たちを募り「三十人の志士」と後に呼ばれる仲間を率いて中国の海南島へ出国した。彼らは鈴木大佐の「南機関」のもとで独立戦争のための苛酷な軍事訓練を受けた。

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