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沼田藩

沼田藩

概要と藩史[編集]

小田原征伐後、沼田領2万7,000石は真田昌幸に返還されるが、昌幸は信濃国上田城を居城として、地理的に離れた沼田領は嫡男の真田信之に任せる。この時期の信之は真田家当主(昌幸)の後継者であり、公的には沼田領も昌幸領の一部でしかなかったが、実質的には半独立的な体制を築いており、これが後の沼田藩の基となる。


信之は領内の検地を早くから実施して領内の支配体制を固める。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、信之は徳川家康の養女(本多忠勝の娘)を妻にしていたことから東軍に与して徳川秀忠の指揮下に入る。上田城の昌幸と次男真田幸村(信繁)は西軍に与して、信之が属する徳川軍相手に上田城にて善戦したが、関ヶ原本戦で石田三成が敗れたため、戦後は紀州九度山に蟄居となった。代わった信之に沼田領を含む昌幸の旧領に加え3万石が加増され、9万5,000石を領する大名となった(上田藩の成立)。

第11代藩主となった土岐頼之寛政の改革で有名な松平定信の孫であったが、幕府とはあまり関係を持たず、慶応3年(1867年)4月16日に家督を土岐頼知に譲って隠居し、翌年の戊辰戦争では桑名藩会津藩と姻戚関係にありながら、新政府軍の沼田進駐を許して新政府に恭順し、三国峠の戦いで会津軍と戦った。明治2年(1869年)6月20日、頼知は版籍奉還して藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で沼田藩は廃藩となり、沼田県、次いで群馬県となった。そして、土岐氏明治17年(1884年)の華族令により、子爵に列せられた。

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