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余の辞書に不可能の文字はない(ナポレオン伝記)


こんにちわ アインホルン革命を目指すサボレオンです。

本日は フランス革命の主人公ナポレオンの話です。

幼少期

卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11ヶ月で必要な課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11ヶ月での卒業は開校以来の最短記録であった。

この時期のエピソードとして、クラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話があり、このころから指揮官としての才能があったことが窺える。才覚の片鱗を見せる一方で、幼年時のナポレオンは、読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』に傾倒し、おとなしい性格だったという(コルシカ訛りを聞かれるのが嫌で無口になっていたとされる)。

最初の功績

何度も艦隊に無駄な襲撃で多数の犠牲者を出し、手間取ってた味方にある作戦を進める

ナポレオンは、まずは港を見下ろすふたつの高地を奪取して、次にそこから敵艦隊を大砲で狙い撃ちにする、という作戦を進言する。司令官のデュゴミエはこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ(トゥーロン攻囲戦)。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により、当時24歳の彼は一挙に少将へと昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。

2回目の功績

1795年、パリにおいて王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)が起こり、これに手を焼いた国民公会軍司令官ポール・バラスによってナポレオンは軍に再び登用され、首都の市街地で大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法をとり鎮圧に成功。これによってナポレオンは中将に昇進、国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとった。

皇帝ナポレオン

あらゆる戦争に 連戦連勝して異例な出世をしながらことごとく勝利した彼は、皇帝となる。
ナポレオンは、1804年12月2日に即位式を行い、「フランス人民の皇帝」に就いた(フランス第一帝政)。英雄が独裁的統治者となったこの出来事は多方面にさまざまな衝撃を与えた。

当時ではありえないことですw

最大勢力

1806年10月にはプロイセンが中心となって第四次対仏大同盟を結成した。これに対しナポレオンは、10月のイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領し、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへと逃亡する。こうしてロシア・イギリス・スウェーデン・オスマン帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧したナポレオンは兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に就け、西南ドイツ一帯をライン同盟としてこれを保護国化することで以後のドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことにより、長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は事実上解体された。

ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評される。


滅亡

ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという結果に終わった。

一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。軍人、小土地自由農民とプチブルジョワジーを基盤とするその権力形態はボナパルティズムと呼ばれる。ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現われた。以後フランスの人口は伸び悩み、イギリス・ドイツなどに抜かれることとなった。1831年には、フランス軍の夥しい喪失からフランス人からの徴兵は止めて多国籍によるフランス外人部隊が創設されることになった。

私なりの解説
 
ナポレオンは本が大好きで 孫子の兵法を愛読していた。
とにかく戦争は負け知らずで 勢力拡大をしていったが、間違ったのは支配地域の組織分担かもしれない。
信頼できるものが多分少ない上に 親族をそれぞれの重要ポストに振ったことにより、それぞれでは常に反発の的になって不平不満が出るはず。 なので常に反抗勢力が何度も生まれ戦争で休むひまさえなく、
最後は ロシアの冬将軍相手に戦って兵を無駄死にさせた。
弱ったところに 反抗勢力が盛り上がりやられてしまう。
最後はヒ素により暗殺されたとの説もある。

ナポレオンが作ったナポレオン法典の一部は 日本の民法にも現在でも生かされていたり、現在のフランスではこの法典がフランスの法律の基盤にもなっており、ナショナリズムの進行とともに、産業革命の引き金も彼のおかげ。エジプト遠征の際に スフィンクスぶっ壊すとかしたのはちと 許せないが とにかく数学的天才で計算や戦術の使い方は尊敬します。
白馬に乗ってる姿が有名だが 実際はロバだったりとかわいさもありますw
かの ベートーベンは ナポレオンの大ファンでありおっかけをしてたらしいです。
作曲した曲の中にも ナポレオンイメージした曲 交響曲第3番変ホ長調『英雄 もいまでは有名です。

戦争では支配できないものは 人の心かも知れません。
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