[PR]
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
栗田健男
栗田健男
栗田健男(くりた たけお、1889年4月28日 - 1977年12月19日)は日本海軍の軍人(海軍中将)。茨城県水戸市に生まれる。旧制水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)、海軍兵学校(38期)卒業。
経歴
水戸藩士の家に生まれる。祖父は藤田東湖、会沢正志斎の弟子で東京帝大教授栗田寛文学博士、父は漢学者で大日本史編集員であった栗田勤。遥かな祖先は清和源氏に連なるというが、元禄時代に水戸に移り油屋を生業とした。父の訓育は水戸の気風を反映し無骨と不言実行をモットーとしたという。伊藤正徳によれば、青少年時代は学問は出来、なによりも頑張りやその上に高い人格を持っていたという[1]。
兵学校を149名中28番[2]で卒業。兵科将校として駆逐艦長や軽巡洋艦艦長、海軍水雷学校教頭、水雷戦隊司令官を歴任。いわゆるエリートコースとされる海軍大学校甲種学生を経ずに司令長官に就任した数少ない人物の一人である[3]。なお乙種学生として4ヶ月ほど海大で教育を受けている[4]が、海大乙種は同期生の約8割が進み、高等数学など主に普通学を学ぶ課程である[5]。
謎の反転
栗田を評する上において最大の焦点となっているのがレイテ沖海戦での「謎の反転」である。これについては、本人が戦中・戦後を通して語ることが無かったと記載される事が多い。実際には、上記のように、レイテ沖海戦に限らず、多くの発言が記録されている(同海戦時「利根」艦長であった黛治夫は佐藤和正の『レイテ沖海戦』内にて「謎」という言葉自体を否定している)。また、相当数の関係者の栗田にまつわる証言が残されている。だが、これらのもので従来知られ、広く引用されてきたのは伊藤正徳の『連合艦隊の最後』によるものであった。
証言記録の他、児島襄が公開した回想、佐藤和正が関係者や非売品書籍から再構成した海戦時のやりとりはいずれも伊藤が同書に書いたものを量的に上回っている。しかし、下記の伊藤正徳、大岡昇平の著書と比較しこれらが参考文献に挙げられることは少ない[19]。
この記事へのコメント