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岡村寧次
陸軍士官学校卒業まで
早稲田中学校、東京陸軍地方幼年学校を経て1903年(明治36年)、陸軍中央幼年学校を卒業する。1904年(明治37年)10月に陸軍士官学校を16期生として卒業し11月に歩兵少尉に任官、歩兵第1連隊補充隊付を命ぜられる。同期には岡村を含めて三羽烏と呼ばれた永田鉄山中将・小畑敏四郎中将の他、土肥原賢二大将・板垣征四郎大将・安藤利吉大将がいる。1907年(明治40年)、陸軍中尉・陸軍士官学校生徒隊付を命ぜられる。岡村は士官学校在学中には中国研究をし、この時の生徒隊では中国からの留学生の教育を担当した。1910年(明治43年)12月に陸軍大学校に入校する。在校中に大尉に昇級し1913年(大正2年)11月、陸軍大学校(25期)を卒業し原隊である歩兵第1連隊中隊長に補される。
任官から終戦まで
1914年(大正3年)から参謀本部で勤務し、同6年には北京駐在員として中国勤務を経験する。1921年(大正10年)6月から半年間欧米に出張し、帰国後の1922年(大正11年)2月歩兵第14連隊大隊長に就任、翌年の1923年(大正12年)から上海駐在となる。1921年(大正10年)の欧米出張の際には10月にスイス公使館付武官永田鉄山・ロシア公使館付武官の小畑敏四郎とドイツのバーデン・バーデンで合い、翌日には東條英機が合流した。会合では派閥解消・人事刷新・軍制改革・総動員体制等について密約したという(バーデン・バーデンの密約)。尚、この密約について詳細は明らかではないが後の極東国際軍事裁判で検察側が軍部独裁に繋がる端緒であるとして取り上げている。
1927年(昭和2年)7月に陸軍大佐に進み歩兵第6連隊長を命ぜられる。翌年は参謀本部内国戦史課長、1929年(昭和4年)8月から陸軍省人事局補任課長に就任する。補任課長在任中に三月事件に関わる。これは宇垣一成陸軍大臣を首班とする軍事政権樹立を企てたものであったが、テロ等の非合法手段を用いた計画であり当の宇垣が直前になって反対した為頓挫した。事件に幾許か関わったのであれば本来なら何らかの処分を受けるところだが、小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長等陸軍上層部の事件に関わっていた事からこの件は隠滅され岡村も処罰はなかった。
1932年(昭和7年)2月に上海派遣軍参謀副長として転出し、同年8月には関東軍参謀副長に就任、1933年(昭和8年)2月から満州帝国駐箚陸軍武官を兼ねる。同年5月31日には国民政府軍の全権だった何応欽と塘沽協定の締結にこぎつける。1935年(昭和10年)3月に参謀本部第二部長として中央に復帰、翌年3月に陸軍中将に補せられ第2師団長に任じられる。師団は内地にあったが、1937年(昭和12年)4月に満州に派遣され、同年7月には盧溝橋事件が発生し日中間で全面戦争に発展していく。1938年(昭和13年)6月新設の第11軍司令官に就任する。第11軍は中支那派遣軍の隷下部隊で7個師団1個独立混成旅団を統括し、1938年(昭和13年)10月の武漢攻略作戦では大いに活躍した。司令官在任中の1940年(昭和15年)2月に勲一等旭日大綬章を受章し同3月には軍事参議官へ移る。
1941年(昭和16年)4月に陸軍大将に進級すると同年7月には北支那方面軍司令官に就任する。岡村は司令官着任時に「滅共愛民」との理念から1941年(昭和16年)11月に「焼くな、犯すな、殺すな」という三戒の遵守を訓示した。岡村は三戒を始めとする風紀粛正によって放火、殺人、強盗が常態化していた北支那方面軍の規律崩壊を食い止め、1943年(昭和18年)ごろまでにはかなり規律を取り戻していたと言われている。1944年(昭和19年)の大陸打通作戦では河南作戦を指揮した。同年8月第6方面軍司令官に転じ湘桂作戦を行う。1944年(昭和19年)11月中国大陸の部隊を統括する支那派遣軍総司令官に就任する。兵力100万の大所帯である。中国大陸では武漢三鎮・広東を手中に収めこれ以上の攻略は難しいと判断した大本営は部隊をそのまま駐屯させる方針をとっていた。
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