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山下奉文
経歴
高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。兄山下奉表は海軍軍医少将。高知・海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(18期)、陸軍大学校(28期)卒業後、スイス、ドイツに留学し、帰国後、陸軍省軍事課長、軍事調査部長等を歴任した。
妻は永山元彦少将(騎兵第2旅団長)の長女・久子。永山少将が佐賀県の出身で、宇都宮太郎・真崎甚三郎・荒木貞夫へとつながる、いわゆる「佐賀の左肩党」の系譜に属したため、女婿である山下も皇道派として目されるようになった。
の虎[編集]
太平洋戦争の緒戦において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮する。日本の新聞はその勇猛果敢なさまを「マレーの虎」と評した(「マライのハリマオ」は別人(谷豊)の異名)。シンガポールの戦いの終結時に敵将イギリス軍司令官のアーサー・パーシバル中将に対して「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話は一躍有名になったが、実際にはより落ち着いた紳士的な文言・口調の会話だったという。(後述) それでも巷間に伝わる「イエスかノーか」の山下の様子を復元した蝋人形場面が、セントサ島にあるシンガポールの歴史を展示しているImages of Singaporeの蝋人形館や、現在は博物館となっているシロソ砦に今日でも展示してある。
統治に際しては「バナナ・ノート」と呼ばれる軍票を発行したり、宝くじを発売するなどして財源確保に努めている。一方で、辻政信が強硬に主張した[要出典]華僑粛清を承認するなどといった汚点も残した。
マレー作戦の成功で山下は国民的な英雄となったが、昭和天皇は山下に拝謁の機会を与えなかった。これは二・二六事件の時の山下の行動を天皇が苦々しく思っていたためだとも、皇道派の山下に対する統制派の東條英機首相兼陸相が軍状奏上の機会を与えなかったためだともいわれている。
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