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ブーゲンビル島の戦い
ブーゲンビル島の戦い
ブーゲンビル島の戦い(ブーゲンビルとうのたたかい)とは太平洋戦争(大東亜戦争)中の戦闘の一つである。日本軍が占領したブーゲンビル島で、アメリカ軍が上陸した1943年11月1日から停戦の1945年8月21日まで戦われた。
背景
ブーゲンビル島は、第一次世界大戦後オーストラリアによって委任統治されていた。1942年3月に日本軍は米豪遮断作戦の一環としてソロモン諸島の一部であるこの島を占領し、飛行場建設を開始した。ガダルカナル島の戦いが始まると、ラバウルからガダルカナル島を攻撃するための中間基地として重視されて飛行場建設が急がれ、北端に付属するブカ島と南端のブインに飛行場が完成した。このほか東岸のキエタにも小規模な飛行場が整備された。南端に付属するショートランド諸島には泊地と水上機基地が設けられ、ガダルカナル戦で重要な役割を果たした。ブインには第八艦隊司令部も進出している。なお、当時の日本軍はブーゲンビル島を「ボーゲンビル島」としばしば表記している。
戦況の悪化に伴い1943年中盤よりアメリカ軍の飛行場への航空攻撃は強化されていった。ブイン飛行場には、海軍航空隊の零戦が70機あまり展開していたが、度重なる米軍との交戦によって30機前後にまで減り、全滅を避けてラバウルに転進した。
日本軍の陸上兵力は、陸軍が第17軍第6師団を中心に4万人、海軍が第8連合陸戦隊と設営隊を中心に2万人が配備されていた。しかし、砲火力が低く対戦車装備も不足していた。島内の交通路の整備も不十分で、迅速な部隊機動も難しかった。日本軍にとって、ブーゲンビル島での上陸地点への反撃は、ガダルカナル島で失敗したジャングルを通って敵飛行場に接近するパターンと同じになり、結果も同様の失敗となる。
アメリカ軍はラバウルの孤立化を目指すカートホイール作戦を発動した。8月5日にニュージョージア島のムンダ飛行場が米軍の手に落ち、10月にはコロンバンガラ島からの撤退を余儀なくされた。ルンガ泊地の米軍艦隊は次第に数を増しており、次に攻撃されるのがブーゲンビル島であることは明白であった。日本軍は大発動艇などを駆使してブーゲンビル島へ物資を送り込んだ。
アメリカ側はニュージョージア島の戦いで飛行場奪取を狙って苦戦した経験から、ブーゲンビル島の日本軍飛行場は占領せず新たな飛行場を建設することにした。アメリカ軍は潜水艦で島に偵察班を送り込んで地形・地質の調査を行い、1943年9月に飛行場建設地をタロキナに決定した[1
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