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パラオ大空襲
パラオ大空襲(パラオだいくうしゅう)とは、太平洋戦争後期の1944年3月30日-3月31日にアメリカ海軍の空母機動部隊が行った、パラオの日本軍に対する大規模な航空攻撃である。4月1日にかけてヤップ島・ウォレアイ環礁・ウルシー環礁も同時に攻撃目標とされた。アメリカ海軍の作戦名はディセクレイト・ワン作戦(英語: Operation Desecrate One)。
アメリカ軍の目的はニューギニア島のホーランジア上陸作戦の準備として、ホーランジアに近いパラオの日本側の航空、海上戦力を制圧することであった。パラオは日本海軍の重要泊地であったが、碇泊中の輸送船・支援艦船多数が撃沈され、機能を喪失した。復旧妨害のため、史上初の空母搭載機による機雷敷設も行われた。本空襲は、古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職する海軍乙事件の発端ともなり、その後の日本海軍の作戦計画に多大な悪影響を残した。
日本艦隊のトラック撤収
1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲により、日本艦隊は、それまでの前進根拠地だったトラック泊地の使用継続が困難となった。そこで、3月8日に発令された新たな作戦計画の新Z号作戦では、パラオ泊地(パラオ本島=バベルダオブ島・コロール島)がトラック泊地に代わる前進根拠地となった。連合艦隊司令長官の古賀峯一大将は、連合艦隊旗艦である戦艦「武蔵」に座乗して自らパラオに進出し、第二艦隊主力(軍隊区分では遊撃部隊と呼称)の重巡5隻・駆逐艦3隻を率いて作戦に備えた。空母部隊である第三艦隊は日本本土やリンガ泊地で再建中だった。艦隊の後方支援のため工作艦「明石」や給油艦などの支援艦船もパラオに集まった[1]。また、パラオはニューギニアやウォレアイ環礁(当時の日本軍呼称はメレヨン島)方面への補給の中継地でもあったことから、多数の陸海軍徴用輸送船も寄港していた。なお、パラオ近くの有望泊地としてウルシー環礁もあったが、日本海軍は観測所を置いた程度で本格利用はしていなかった。
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