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ニューギニアの戦い

ニューギニアの戦い

ニューギニアの戦い(ニューギニアのたたかい, New Guinea Campaign)は、太平洋戦争大東亜戦争)中期以降、ニューギニア戦線において、日本軍連合国軍との間で行われた一連の戦闘である

概要

太平洋戦争開始後間もない1942年1月、日本の大本営は「ニューギニアおよびソロモン群島の要地の攻略を企画する」と決定し、ニューギニアについては「ラエサラモア攻略後なしうればポートモレスビーを攻略する」とした[1]。この決定により1942年3月8日、日本軍は東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸し占領した。 これがニューギニアの戦いの始まりであり、ダグラス・マッカーサー大将が率いる連合軍との間で1945年8月15日の終戦まで戦いが続けられた。連合軍の優勢な戦力の前に日本軍は次第に制海権制空権を失って補給が途絶し、将兵は飢餓や過酷な自然環境とも戦わねばならなかった。ニューギニアに上陸した20万名の日本軍将兵のうち、生還者は2万名に過ぎなかった。また台湾高砂族による高砂義勇兵や朝鮮志願兵、チャンドラ・ボース支援のインド兵も戦闘に参加している。

背景

ニューギニア島は、日本から真南に5,000キロ、オーストラリアの北側に位置する熱帯の島である。面積は77万平方キロと日本の約2倍の広さであり、島としてはグリーンランドに次いで世界で2番目に大きい。脊梁山脈には4,000メートルから5,000メートル級の高山が連なり、熱帯にありながら万年雪を頂いている。19世紀の帝国主義の時代、ニューギニア島は西半分がオランダ領、東半分の北側がドイツ領、南側がイギリス領に分割された。その後1901年のオーストラリア独立に伴って旧イギリス領はオーストラリア領となり、第一次世界大戦後は旧ドイツ領がオーストラリア委任統治領となった。1942年当時、ニューギニア全島のほとんどは熱帯雨林と湿地帯によって占められ、人口密度は1平方キロあたり2人以下で人口調査ができないほどの未開の地であった。沿岸部にはポートモレスビー(南東岸に位置)などの小都市が存在したが、山間部には狩猟・採集や、サゴヤシ澱粉質である「サクサク」の採取、類の畑作などによって生活する原住民が居住していた。


太平洋戦争が開始されると、日本軍はトラック諸島の海軍基地を防衛する必要からニューブリテン島ラバウルを攻略し前進拠点とした。しかしラバウルはオーストラリア領ニューギニアの中心拠点ポートモレスビーの基地から爆撃圏内にあった。日本軍はラバウルの防衛と米豪遮断作戦を視野に入れてポートモレスビーの重要性を認識し、海路からの上陸作戦を計画した。作戦は「MO作戦」と名づけられ、ニューギニア島の北岸のラエサラモアには前進航空基地の設営が計画された。


連合国軍にとっても、ポートモレスビーはオーストラリア本土の最後の防衛線であり、絶対に守り抜かねばならない拠点であった。また、フィリピンから脱出してオーストラリアに拠点を置いていたダグラス・マッカーサー大将にとっては、オーストラリアからニューギニア島北岸を経由するルートは、フィリピンを奪還し東京へと至る対日反攻ルートの起点でもあった。1942年3月8日、日本軍がラエとサラモアへ上陸してニューギニアにおける本格的な戦端が開かれた。

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