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ラバウル
ラバウル
ラバウル(英語:Rabaul)は、パプアニューギニア領・ニューブリテン島の都市である。
概要
パプアニューギニア・ニューブリテン島のガゼル半島東側に位置する、良港シンプソン湾を臨む都市で、東ニューブリテン州の州都でもある。ラボールとも呼称される。
ラバウルはコプラやコーヒー、ココアの産地として有名。なお、周囲は火山地帯として知られ、シンプソン湾自体もカルデラである。
歴史
「ニューブリテン島の歴史」も参照
1910年にドイツが建設した街である。第一次世界大戦までドイツの統治下にあったが、1914年9月、オーストラリア軍が占領。その後オーストラリアにより統治される。
日本軍の占領
第二次世界大戦中の1942年1月23日には日本軍が占領し、1942年11月20日着任した今村均陸軍大将などの指揮によって東南方面への一大拠点が築かれる。ラバウル航空隊の基地があり連合軍側からはラバウル要塞と呼ばれた。陸海軍合わせて9万余の日本軍が配置された。日本軍は自給自足体制による食料の確保と、堅固な要塞を築き上げていた。これをみた連合軍は、反攻にあたり頑強な抵抗が予想されるラバウルを占領せず包囲するにとどめた結果、終戦時まで日本軍が保持することとなった。また、オーストラリア軍は日本軍占領時に大きな損害を出したためか、他の連合軍に比べ勇猛に戦ったという。
ジャワ島
ジャワ島
ジャワ島(ジャワとう、インドネシア語: Jawa, 英語: Java)は、インドネシアを構成する島の一つ。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。
概要
首都ジャカルタが存在する。人口は約1億2400万人で、インドネシア一のみならず、世界第一位の人口を有する島である。人口密度も981人/km²と高い。過剰人口や貧困問題はオランダ支配下の19世紀前半に始まる。ジャワは、古代から東南アジアにおいて人口分布の核心地であったと考えられる。ジャワ島の西部にスンダ人、中部と東部にジャワ人、東部の一部(マドゥラ島とその対岸)にマドゥラ人が住み、狭義の「ジャワ」はこれらのうちのジャワ人地域である。
オランダの到来
その後、バンテン王国がスンダ海峡の交易路の支配者となって繁栄したが、1596年にオランダ商人のコンパニエ・ファン・フェレ(遠方会社)が資金を出し、コルネリス・ドゥ・ハウトマンが香料の買い付けにバンテン王国を訪れた。オランダ人とジャワ人の間で公式書類が交わされ、三世紀半に及ぶ両国の関係が始まった。しかし、和親同盟ではなく惨い植民地支配であった[1]。1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。1606年、ポルトガルとオランダ東インド会社がタンジュン・トゥアン[2]を巡ってラチャド岬の戦いを行ない、ポルトガルが勝利して香辛料貿易独占の足がかりとなった。
親オランダ政策をとったスルタン・ハジは、反オランダ派の父スルタン・アグン・ティルタヤサとの内戦に勝利したものの、1619年にオランダ東インド会社のヤン・ピーテルスゾーン・クーンがバンテン王国を管理下に置き、「ジャヤカルタ」は「バタヴィア」(Batavia、古代オランダの呼称)と改名されることになった。1623年、モルッカ諸島のアンボイナ島でアンボイナ事件が起こり、オランダ東インド会社が香辛料貿易を独占することになった。イギリスは東インドの制海権を失って香辛料貿易が頓挫すると、南インドのフランス領ポンディシェリ占領を目指してカーナティック戦争を開始することになった。1641年、オランダ東インド会社がジョホール王国の援助を得てポルトガル領マラッカを占領し(マラッカの戦い (1641年))、オランダ領マラッカとした。1667年、第二次英蘭戦争の講和条約・ブレダの和約で、ニューアムステルダム(現ニューヨーク)とバンダ諸島のラン島を交換した。
18世紀の3次にわたるジャワ継承戦争(第1次ジャワ継承戦争、第2次ジャワ継承戦争、第3次ジャワ継承戦争)と華僑虐殺事件の結果、マタラム王国は4分割されてジャワ島全域がオランダ東インド会社の支配下に置かれた。1824年、英蘭協約でオランダ領マラッカとスマトラ島のイギリス植民地を交換し、イギリスの海峡植民地が完成した。ジャワ戦争(1825年 - 1830年)