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安重根
安重根
安 重根(日本語読み;あん じゅうこん、朝鮮語読み;アン・ジュングン、朝鮮語表記:안중근、1879年9月2日 - 1910年3月26日)は朝鮮において初代韓国統監を務めていた伊藤博文(日本の初代内閣総理大臣)[1][2][3]を暗殺したテロリストならびに民族主義者。元死刑囚。
生い立ち[編集]
黄海道の道都・海州の両班の家に生まれる。東学党に反対していた安は追われてカトリック教会のパリ外国宣教会のジョゼフ・ウィレム(Nicolas Joseph Marie Wilhelm, 빌렘, 韓国名: 洪錫九)[4]司祭に匿われ、洗礼を受け[5]キリスト教に改宗した(洗礼名は「トマス」)[6]。教育関係の仕事を経た後、1907年の高宗の強制退位と軍隊解散、それに伴う義兵闘争の高まりのなかで危機感を募らせウラジオストクへ亡命、そこで「大韓義軍」を組織し、抗日闘争活動に身を投じる。
彼は死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、妻への最後の手紙では、自分の息子が聖職者になるように尋ねたりもしている[7]。
伊藤博文暗殺[編集]
1909年10月26日、伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン(哈爾浜)に赴いた。午前9時、哈爾浜駅に到着し、車内でココツェフの挨拶を受けた後、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に、群衆を装って近づいた安重根の放った銃弾3発が命中、伊藤は約30分後に死亡した。狙撃後、安重根は ロシア語で「 コレヤ ウラー!(Корея! Ура!)」(韓国万歳)と大きく叫んだ。
安重根はその場でロシア官憲に逮捕され、2日間拘留された後、日本の司法当局に引き渡された。留置中に伊藤の死亡を知った際、安は暗殺成功を神に感謝して十字を切り「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べたという[7]。
大韓帝国のカトリック教会の司教からは大罪を犯した安重根にサクラメントを施してはならないという命令が出されたにもかかわらず、懇意であった洪司祭は彼のもとを訪れ支えとなった。彼も収監中は官吏に対し自分を洗礼名で呼ぶよう主張したといわれる。
抗日闘争に際しての彼の決意の堅さを表すエピソードとして、同志とともに薬指を切り、その血で国旗に大韓独立の文字を書き染めた「断指同盟」の逸話も伝わる(cf. 写真の左薬指)。
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