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盧溝橋事件

 


盧溝橋事件

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日北京北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[3][4]。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[5]。この事件は日中戦争支那事変)の直接の導火線となった[6]。以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたこともあるが、今では正式名称ではない。この事件後に幾つかの和平交渉が行われていた(後述)。事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づく。

事件前の状況

コミンテルンの人民戦線と中国

1935年7月25日から開会された[7]第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言され[8]、同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張し始めた[9]。コミンテルン支部である中国共産党はこの方針に沿って翌8月には「抗日救国のために全国同胞に告げる書(八・一宣言)」を発表し、1936年6月頃までに、広範な階級層を含む抗日人民戦線を完成した[10]。コミンテルンによる中国の抗日運動指導は五・三〇事件に始まっており、抗日人民戦線は罷業と排日の扇動ではなく対日戦争の準備であった[11]。1935年11月に起きた中山水兵射殺事件、1936年には8月24日に成都事件、9月3日に北海事件、9月19日に漢口邦人巡査射殺事件、9月23日には上海日本人水兵狙撃事件などの反日テロ事件を続発させた。さらに1936年12月に起きた西安事件におけるコミンテルンの判断も蒋介石を殺害するのではなく、人民戦線に引き込むことであった[12]。西安事件翌月の1937年1月6日に南京政府は国府令として共産軍討伐を役目としていた西北剿匪司令部の廃止を発表している[13]


 

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