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淀殿
淀殿(よどどの、永禄12年(1569年)?[1][2] - 慶長20年5月8日(1615年6月4日))は、戦国時代(室町時代末期)から江戸時代初頭の女性。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の側室[3]。 位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井 菊子(あざい きくこ)。浅井三姉妹の一人。
徳川家康との対立、大坂の陣[編集]
家康は豊臣家の蔵入地を関ヶ原の戦いの恩賞として諸将や自らで分配し、豊臣家の支配地は大坂65万石となってしまった。淀殿は秀頼の後見人として、家康ら五大老・五奉行の去った大坂城の主導権を握る。
江戸に武家政権を構築し始めた家康とは対立。暗に臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否し、そのようなことを余儀なくされるならば、秀頼を殺して自害すると主張した。慶長19年(1614年)、関東との交渉役片桐且元と淀殿侍女の大蔵卿局の家康の意図解釈の齟齬をきっかけとして大坂の陣が勃発。淀殿は自ら城内で閲兵・督戦を行うが、期待した諸大名の加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、講和を指示する。しかし翌慶長20年(1615年)の再戦(大坂夏の陣)で大坂城は落城、秀頼や大野治長らと共に自害した。
墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英嵓と伝わる。
しかし淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、また遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説などの伝説が生まれるようになった。落ち延びた先としては薩摩や上野に伝承が残っている[9
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