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毛利秀元
関ヶ原の戦い[編集]
関ヶ原の戦い時、毛利氏の運営は秀元及び恵瓊と吉川広家によって担われていた。毛利氏は西軍に属したが、輝元は西軍の総大将として大坂城に入っていたので、実際に関ヶ原へ赴いたのはこの3人であった。
広家と毛利家家老の福原広俊は西軍の勝利を危ぶみ、東軍と密かに内通して「毛利は表向きは西軍であるが、戦場では戦わずにそちらに協力する。その代わり、東軍が勝利した暁には所領を安堵してほしい」と交渉していた。秀元自身には戦意があったとされるが、広家がそれを押し留めた(宰相殿の空弁当)[3]。結果、毛利家の当主が傍観したため恵瓊・長宗我部盛親・長束正家など他の南宮勢も秀元が東軍に内通してるのではないかという疑心暗鬼にとりつかれ、自身らも傍観せざるを得なくなった。戦局が西軍の敗色濃厚となると戦わずに戦場を離脱したが、東軍の追撃を受ける。
戦後、大坂城に撤退した秀元は立花宗茂と共に徹底抗戦を呼びかけたが、輝元はこれに応じず、城を退去してしまった。一方で、秀元は輝元の大坂入城時にはその行動を諌めており、開戦当初は徹底抗戦派ではなかったと考えられる。
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