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武田信玄の器


こんにちわ 最近もっぱら歴史にはまってます・・小学校や中学校で一番寝ていたんですがね・・・w

武田 晴信武田 信玄(たけだ はるのぶ/たけだ しんげん)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。
甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。
その過程で対立した越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。晩年、上洛の途上に、三河で病を発し信濃で病没した。
江戸時代から近現にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が広く浸透し、風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎または龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、強大な武田軍を率い、また上杉謙信の好敵手としてのイメージが形成される。現在でも、地元の山梨県をはじめ全国的に高い知名度を持ち、人気を集めている戦国武将の一人である。

この人は 周りに盛り立てられて親父まで追放してまで甲斐をまとめた人物、親父があまりにもひどかったのもありますが、最高の期待を浴びるぐらいの器の持ち主です。
攻めていた北条と和睦し 今川方とは同盟を組み甲駿相三国同盟を締結させると 本格的に信濃へ侵攻し次々と攻略、周りが敵だらけなのを徐々に纏め上げ敵を絞り込んだわけです。
実際は 砥石崩れなど 武田も勝ったり負けたりの苦戦でしたが、ようやく信濃を平定、現在の山梨と長野を手に入れるわけです。

天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始し、以来善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。このときは景虎方に武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破される。景虎は武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避ける。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。

↑のあたりから有名な何度も繰り返す 川中島の合戦の始まりです。
上杉と武田が戦ってる最中に織田と徳川が力つけてきたんですがね・・w
謙信がもし 信濃に侵攻しなければ歴史も変わったかもしれません。
ともに この戦いではお互いにらみ合いを繰り返し決戦には挑まないです。
無駄な戦力の浪費はのちのち国家衰退につながるので お互い慎重ですw
この後 織田と徳川が暴れまくって 北条は裏切ったりの繰り返しで 武田は再び危機に入るも安定させます。
南の徳川と 北の上杉を相手によく耐えたのはすごいです。
この後 織田と同盟関係にするなど外交もうまい! 

家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れた(一言坂の戦い)。12月19日には、遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。劣勢に追い込まれた家康は浜松に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て兵1万1,000を率いて出陣、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と一大決戦を挑む。しかし、家康出陣を完全に読みきった信玄の戦略(祝田返し)と、兵力・戦術の差に大敗を喫し、徳川軍は多くの将兵を失い敗走した(三方ヶ原の戦い)。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したと伝えられている。

家康も洩らすほど怖がらせたのはこの人ぐらいですw
ただ 誰しも弱点はあるものでこの人は結構病弱で ↑の合戦の時からも吐血を繰り返してたそうです。
で 死後の事も良く考えて戦略なども言ってはいたものの 実際は遂行されず・・
ここからは 黒澤監督の影武者が詳しいですね・・

内政では 治水工事でよく氾濫してた川を堤防を築き狭い土地でも米を手に入れ 金山の発掘で外交に使い、水軍もきちんと作ったようです。

仏教が趣味で 坊さんにもこれ以上読まなくていいよと 注意まで受ける始末w

信玄有名な名言

人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり

(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる)」 甲陽軍鑑に、「ある人が信玄の詠んだ歌だと言った」と記されている。この言の通り、信玄はその生涯の内一度も甲斐国内に新たな城を普請せず、堀一重の躑躅ヶ崎館に住んだ。ただし、後背には詰めの城である要害山(積翠寺)城があり典型的な戦国武将の山城ともいえる。

およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり

勝者に驕りが生じることを戒めた言葉。信玄死後、連戦連勝を重ねた勝頼が長篠で一敗地にまみれたことを重ねると、実に説得力のある戒めであるが、そもそも甲陽軍鑑の脚色とする説もある。

為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ
やればなんとかなる やらなければできない やってないのにできないというのは もったいなくね?ってことかな?

其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山
(その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し)」(孫子ではこの後に「難知如陰 動如雷霆 (知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆(らいてい=雷)の如し)」と続く)という語句を略したものである。信玄もこれをもとに軍旗に「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と書いて戦った。また、その軍旗は恵林寺の住職快川紹喜の書と伝わり、武田神社に現物が収蔵されている。

余談・・昔つきあってた彼女が山梨出身で武田の城みたいなところ行きましたが あの戦国時代にこんなとこで余裕で住んでたのはすごいな・・・・と思いましたね。
信玄餅食いながら カモが水辺に泳いでたのを思い出しますw

信玄も孫子の言葉を旗印で戦国最強の騎馬軍団を率いて戦ったわけですが、
最強だったのは旗印でも騎馬軍団でもなく 最も人を大切に思った人だったからだと思います。
この後 信玄が病で倒れ 即効で織田につぶされますからね・・・w

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