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ジャンヌダルクの生涯




こんにちわ 五月雨の中チャリでタバコ買いにいって 冷たい雨がやけに気持ちよかったダークです。

本日は 女性の戦士で有名なジャンヌダルクの話です。

神の啓示と使命

ジャンヌは1425年、初めて「声」を聞いた。後の処刑裁判での答弁によると、聖女カトリーヌとマルグリット、そして大天使ミカエルの声であったという。「声」はジャンヌにヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会い、オルレアンの包囲を解いてフランスを救うよう告げた。ジャンヌは「声」に従い、1428年5月にボードリクールの元を訪れたが追い返された。

このあと 3週間も説得を続けまわりも この話を信用するようになる。

初陣

1429年4月、ジャンヌは「ラ・ピュセル」(la Pucelle:現代訳では「少女」の意味である、当時の語彙では「女中」「メイド」程度の意味)と呼ばれることになり、ロワール川沿いの都市オルレアンに向けて出発した。当時オルレアンはイングランド軍に包囲されていた。ジャンヌはオルレアンの総司令官であった「オルレアンの私生児」ジャン(後のデュノワ伯)、後に熱心な支持者となるアランソン公、オルレアンの隊長「ラ・イール」、ジル・ド・レイ(一説にはシャルル・ペローの『青ひげ』のモデルとも言われる)たちとともに、イングランド軍と戦った。ジャンヌは勇猛果敢に突撃したが、左肩に矢を受けた。命に別状はない外傷だったが、このときは未だ10代後半の女であるに過ぎず、不安のあまり泣き出す始末だった。ジャンヌは人を殺したくないという理由から、旗持ちを好んでいたが、仲間の兵隊たちを鼓舞する役目を堂々と果たし、戦闘においては進んで危険な突撃を敢行した。むろん、ジャンヌの鼓舞により、オルレアンの兵隊たちの士気はいやがうえにもあがった。翌月、イングランド軍は撤退しオルレアンは7ヶ月以上にわたる包囲網から解放された。

神託と裁冠式

その後、ジャンヌはロシュ城にいた王太子シャルルの下に馳せ参じ、ランスにてシャルル7世として正式の戴冠式を挙げることを強く主張した。ランスはフランク王国メロヴィング朝の王クローヴィスが洗礼を受けた町で、歴代のフランス王がこの地で戴冠式を挙げていた。そのため、シャルルの王位継承権の正統性を世に知らしめるためには何としてでもランスで戴冠式を挙げる必要があった。だが、ランスまで行くにはイングランド軍を打ち破らねばならなかった。そのため反対する者もいたが、最終的にはジャンヌの提案が受け入れられ、シャルルはランスへと向かった。途中にあった都市を次々と傘下に入れ、途中に宮廷筆頭侍従のドゥ・ラ・トレムイユと犬猿の仲であったリッシュモン大元帥の救援を受け入れ、1429年6月18日のパテーの戦いで大勝利を収めた。これによってランスへの道が開け、7月17日にシャルルはノートルダム大聖堂で戴冠式を挙げ、正式なフランス国王シャルル7世となった。これによって、ジャンヌの神託であるオルレアンの解放とランスでの戴冠式の両方が成し遂げられたことになる。

権力の犠牲

ジャンヌはすでに役目を終えていたのであるが、シャルル7世としてはカリスマ的な人気を得ていたジャンヌを放り出すわけにもいかず、引き続き従軍を命じたものの、複雑な政治情勢や王と顧問官達の思惑の犠牲になった。
その後、ジャンヌは次第に宮廷内で孤立してしまう。首都であるパリを奪還することなくしてシャルル7世の地位は磐石にはならないと考えるジャンヌ、およびアランソン公
などのタカ派に対して、国王側近は現状の成果に甘んじてこの方針に反対したため、ジャンヌは孤独な戦いを強いられるようになった。

異端者としての裁判

1430年5月23日、ジャンヌはコンピエーニュの戦いでフィリップ善良公のブルゴーニュ軍に捕えられる。その後、1万リーブルの身代金と引き替えにブルゴーニュ軍からイングランド軍に身柄が引き渡され、同年12月24日にルーアンのブーヴルイユ城に監禁される。

1431年2月21日、ルーアンで異端審問裁判が始まる。名義上の裁判長はジャン・ル・メイトスだが、彼は裁判の正当性に疑問を感じ、予審のほとんどを欠席し、正式の裁判でも沈黙を続けた。実際に裁判を指揮したのはイングランド側の意向を強く受けた代理裁判長ピエール・コーション司教だった。その他60名を超える聖職者たちが裁判にたずさわったが、イングランドの強引な介入に反発を示す者も少なからずいた。

審理の大きな争点はジャンヌが聞いたとする声の正体だった。ジャンヌは声の主を天使である聖カトリーヌ、聖マルグリット、及び聖ミシェル(ミカエル)だと主張したが、審理の結果それは森の精霊であり、ジャンヌは悪魔崇拝や神の冒涜を犯した異端者であると結論づけられた。 また男装も異端の証とされたが、裁判に先立って行われた処女検査では処女であることが確認された(魔女は悪魔との交わりで処女を失うと考えられていた)。

あきらめと真実と火刑

5月24日サン=トゥアン修道院の仮設法廷で判決が言い渡され、ジャンヌは火刑に処されるはずだったが、判決読み上げの途中でジャンヌは異端であることを認め、教会に指示に従って改宗することを告げた。この時ジャンヌが署名した誓約書は読み聞かされた内容ととラテン語の正式の文面は大きく違っていたと言われる。ジャンヌは改宗に応じて悔悛したため極刑は免れ、永久入牢とされた。

しかし5月28日、女性の服装に戻っていたはずのジャンヌは再び男装に戻る。ジャンヌは教会の牢ではなくイングランド軍の牢に監禁されていたため、看守らの性的脅迫にさらされていたと思われる。一度改宗した者が再び異端に戻る「異端再犯」はもはや説得し救済することはできないとして、極刑を免れることはなかった。

5月30日、ジャンヌは異端者として教会から破門とイングランド軍による即時死刑を宣告され、ルーアン市内のヴィエ・マルシェ広場で火刑に処された。

ジャンヌの最後

点火されるまでのジャンヌは「神様、神様」と泣き叫んでいたが、火の勢いが強くなると「すべてを委ねます」といって無反応になったと記録されている。炎の中、ジャンヌが高温と煙で窒息死し、その服が燃えた時点で一旦火は遠ざけられた。群衆に向けてその裸体、性器を晒し、ジャンヌが聖女でも魔女でもなく、ただの女に過ぎないと示すためであった(魔女は両性具有と思われていた)。ジャンヌは死してなお、性器を晒されるという女としての屈辱も受けたのである。

壮絶な人生を送ったオルレアンの乙女は 神をバックにつけて強大な人気とカリスマを持ったが故に、権力者には恐れや妬みをもたれる理由になったわけである。もちろん敵側にしてみればかなりの脅威になったので、最後は普通の女だと公開処刑で最悪な最後を迎えたわけだが、後にフランスがイングランドに征服されないきっかけを作った英雄として評価された。

ジャンヌ・ダルクは1909年4月18日ローマ教皇ピウス10世によって列福された。次いで1920年5月16日ベネディクトゥス15世によって列聖され、聖人
となった。

ROHANとは まったく関係ないように見えますが、カリスマ持ちすぎる人は権力者のねたみや嫉妬のターゲットなるのはMMOでも一緒です。したらばで叩かれてる人は 大抵はこのたぐいw
したらば住民に権力者はいないとは思いますがw 叩かれるようになって一人前だと思うほうがいいです。

(ちなみに この作品でミラのファンになりました 透明感のある素直な感じの雰囲気大好きです)

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